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吉田朝啓が公衆衛生の最前線「衛生研究所」を舞台に描く、
知られざる戦後・沖縄のリアルな裏面史!


ベトナム戦争の発進基地となった嘉手納から今日もまたB52爆撃機が爆音とともに飛び立つ。1968年頃。
 吉田朝啓

琉球衛研物語

 Ryukyu Eiken Monogatari 1946~1993

集団就職で本土へ向かう船の見送り風景。今日の飛行場にはない、テープでの別れ。1968年頃。

赤痢、日本脳炎、基地公害、米軍毒ガス移送から、ハブ、性病、アスベスト問題まで、ドクトル吉田朝啓が第五代所長として勤務した「琉球衛生研究所」は、米軍統治を背景に、戦後の沖縄の混乱と復興の中で、ありとあらゆる問題が発生した。ここには、歴史家や、マスコミが取り上げていない、沖縄戦後史に埋もれた特異な陰の部分が横たわっていて、史料的価値が高いばかりか、現代の日米地位協定に基づく、様々な問題と通底していて、見逃せない。
(編集人、サイト制作&運営 樋口謙一)


琉球衛研物語 §68.
カンボジア沖縄友好の会誕生


シム・サミット先生。48歳。
プノンペン大学医学部を卒業後、当時のソビエト連邦に留学。

帰国後は赤十字病院などに勤務したが、間もなく内乱。
国王まで篭絡したポルポトが、首都プノンペンを制圧。
後は強制的に都会の人間をことごとく農村に追いやり、
インテリ(有識者)や技術者を大量殺戮。

身の危険を覚えたサミット先生。
10名近い一族郎党を抱えて、西へ西へと落ち延びた。

タイとの国境沿いには、
まだポルポトの勢力の及ばない緩衝地帯が残されていた。
タイ王国や国連の無言の圧力もあって、この緩衝地帯には殺戮はなく、
ただ絶望と混乱が渦を巻いていたが、およそ50万の難民のために
仮の行政機関と国際救援活動が芽生えてはいた。

サミット先生はこの動乱の難民キャンプから、
臨時行政機関の命令を受けてJICAの研修生として
沖縄県公害衛生研究所に派遣されてきた、というわけである。

「後顧の憂い」という言葉があるが、
サミット先生は、難民キャンプに家族を残したまんま、
毎日「後顧の憂い」を振り払い振り払い
研修に没頭しようと努力をしていたのである。

道理で、いつも眉間に皺を寄せてカマジシをくわえていたわけだ。
これは迂闊であった。

どの研修生も、それぞれ母国の異なった状況を背景に、
沖縄にやって来て、衛研に拠点を置いて技術を磨き知識を深めようと、
ストレスいっぱいに、ほんとはみな真剣なのだ。

平和ぼけしている日本の我々が、
気を楽にしてもらうために研修生を明るく歓待するのは大事なことだが、
極楽トンボのようにひらひらして、蓮っ葉になってはならない。

チョウケイは内心を引き締めた。
ふーっとため息をついてから、聞いてみた。
「ご家族はどうなっているの」。

サミット先生もふーっと息を吐いてから、絞るような声で
「子供5人とワイフは無事に生き延びたが、
両親と姉が途中でやられた」という。
「ポルポトは人間じゃない」といってうつむくサミット先生を前に、
チョウケイは言葉を呑み込んだ。

翌日からチョウケイの方が陰鬱な表情になり、
逆にサミット先生に笑顔が見えるようになった。

心情を吐露して後、少し楽になったのか、あるいは、
「全県民に訴えて、カンボジアを応援するための友好団体を作ろう」と
決意を述べて励ましたチョウケイの言葉に、活力を得たか。

チョウケイはまず新聞の投稿欄に書きまくった。

「アンナン・カンボジア・シャム・ルソンへと、
わした琉球の祖先たちが駆け巡り、数百年の間、
南の国人らの微笑みの文化に触れ、物事を習い、
貴重な生活物資を仕入れ、心豊かな琉球王国を築き上げたのも、
そもそもこれらの国々のお蔭ではないか。
サンシンも泡盛も、紅型も南蛮焼きもみんな南からではないか。
いまその恩義のある国が混迷の淵にあえいでいるのに、
我々は手をこまねいておれるか。カンボジアに応援の手を!」と訴えた。

衛研所長室の電話がやがてひっきりなしに鳴るようになった。
そしてサミット先生の講演会が、県内各地区医師会、ソロプチミスト沖縄、
ロータリークラブ、ライオンズクラブによって次々と開催された。

サミット先生が東奔西走し、同胞の窮状を切々と訴えた。
その熱情に応えて、有志が集まり、
カンボジア沖縄友好の会(COFA)が結成され、
カンボジアに架ける橋のために様々な分野のウチナーンチュが
それぞれの立場で支援を続けるようになった。

現地にささやかながら診療保健所が建ち、
提携相手の青年グループも活発になり、
県の「沖縄平和賞」関連の「花の平和交流事業」が実施され、
沖縄の伝統芸能・舞踊団が現地で公演された。

そして新事業として現地の中高校生を対象にした「奨学金制度」が、
COFAの金城光男新会長の企画でスタートした。

現在、すでに20名を超える奨学資金提供希望者が相次ぎ、
里親となってカンボジアの子供たちとの交流が続けられている。

首都ブノンペン市のメコン川河畔には、
沖縄から贈られ、稲嶺知事みずから数百名のウチナンチュ交流団と共に
植栽されたトックリキワタ、イペー、県花デイゴなどがすくすく成長し、
数年後、アメリカのポトマック河畔の桜並木に劣らぬ景観を
見ることになるだろうと期待されている。

花の平和交流事業の一環として、稲嶺県知事による記念植樹

衛研に一人の外国人が来ただけで、これだけの波が起こり、
これだけの事業が進展し、
両国のこれだけ多くのウマンチュが交流するようになるとは。

やはりチムグクルの邦沖縄である。


        
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琉球衛研物語
総インデックス
全72セクション・リンク
§1 全国の衛生研究所とその働き
§2 琉球衛生研究所の生い立ち
§3 衛研の庁舎新築
§4 衛研への本土学者の応援
§5 保健婦のためいき
§6 ハブの啼き声
§7 地から湧く日本脳炎
§8 燃える井戸
§9 アルミニューム工場誘致問題
§10 ワシントン条約とサンシン
§11 ホテルに泊まったニシキヘビ
§12 性病Gメン
§13 毒ガス移送問題
§14 米軍PCP汚染事件
§15 沖縄県公衆衛生協会誕生
§16 牛糞をこねる男
§17ゴールデンシャワーとの出会 い
§18 熱帯花木オンパレード
§19 田熱・レプトスピラ症
§20 テイシューが湧く井戸
§21 蚊が死なない
§22 野ネズミが消えた
§23 バガス病
§24 危し宮古島地下水脈
§25 宮古島地下水対策協議会誕生
§26 水納島上陸作戦
§27 ハブとの住み分け大作戦
§28 国場川を埋め尽くす死魚
§29 南大東島水銀事件
§30 ハブの成長曲線
§31 血清銀行
§32 吹きまくる風疹
§33 轟く基地公害
§34 怒る中山貞則長官
§35 MSA対決
§36 毒牙の生え変わり
§37 寄生虫予防協会誕生
§38 多発する赤痢
§39 魚介類のコバルト汚染問題
§40 シガテラによる食中毒
§41 先天性代謝異常検査開始
§42 「青年の家」とハブ
§43 全校生徒眼が痛い!?
§44 ソロモンの星の下で
§45 平敷式血液塗末標本処理器
§46 古戦場ガダルカナルで
§47 塩漬け琉球列島
§48 中華料理店症候群
§49 逃げたハブ
§50 タリュウム中毒事件
§51 タバコとハブ
§52 ひよこの特攻隊
§53 アフリカマイマイ
§54 杜総明先生との再会
§55 沖縄にも肺吸虫
§56. 衛研、大里の新天地へ
§57 新庁舎建設委員会
§58 コレラ菌安謝川を汚す
§59 クワズイモのえぐ
§60 ハブ探索犬
§61 目下フンセンチュウ
§62 アスベスト撤去作戦
§63 JICAの研修生受け入れ
§64 久高島にハブ
§65 ヴェロニカ製ろ過装置
§66 のた打ち回る島々
§67 サミット先生のこと
§68 カンボジア沖縄友好の会誕生
§69 アセアンの森
§70 チョウケイの転戦
§71 寝たきり予防
§72 郷土劇 “ゆいまある





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