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吉田朝啓が公衆衛生の最前線「衛生研究所」を舞台に描く、
知られざる戦後・沖縄のリアルな裏面史!


1954年(昭和29年)頃の国際劇場。この名前から、国際通りと呼ばれるようになった。
 吉田朝啓

琉球衛研物語

 Ryukyu Eiken Monogatari 1946~1993

波の上宮。1954年頃。

赤痢、日本脳炎、基地公害、米軍毒ガス移送から、ハブ、性病、アスベスト問題まで、ドクトル吉田朝啓が第五代所長として勤務した「琉球衛生研究所」は、米軍統治を背景に、戦後の沖縄の混乱と復興の中で、ありとあらゆる問題が発生した。ここには、歴史家や、マスコミが取り上げていない、沖縄戦後史に埋もれた特異な陰の部分が横たわっていて、史料的価値が高いばかりか、現代の日米地位協定に基づく、様々な問題と通底していて、見逃せない。
(編集人、サイト制作&運営 樋口謙一)


琉球衛研物語 §57.
新庁舎建設委員会


1978年、大里村役場職員と照屋先生に同道して、
高嶺原の台地に案内されたチョウケイ所長は、愕然とした。

候補地として推薦された現場は、
村道から数十メートルもせり上がった急斜面のススキが原である。

こんな荒蕪地にビルが建てられるはずがない。
村が開発を断念した地面を県に高く売りつけるための
仕掛けだったのかと、一瞬考えた。

一方、照屋先生は、丘の頂上近くに立って周囲を見渡してから、
おもむろにチョウケイに語りかけた。

「君、これは研究所の敷地としては最高の場所となるよ。
見晴らしはいいし、スペースが広いし、県庁からも30分の近距離にある。
第一、史跡・名勝・天然記念物との関わりもない。ここに決めなさい」。

照屋寛善先生。生まれも育ちも首里で、温厚篤実。
見るからに典型的なスインチュ(首里人)で、
白い髭を加えたら一見高潔な三司官の風貌だ。


衛研移転と新庁舎建築に貢献された照屋寛善第2代所長(右、左筆者)

普段はやさしく、話し方も穏やかだが、
一旦理不尽なことに触れると、
声を震わせて論陣を張る気骨はとても硬いお方である。

かつて、琉球大学の運動場を現在の円覚寺跡に
拡大して整備しようという計画が一部の教授たちによって提案されたとき、憤然として抵抗したのは照屋先生であった。

琉大初代保健学部長に就任された照屋先生ご夫妻(1978年)

「農家政ビル、工学ビル、志喜屋図書館、南北両学生寮という
永久建築物が建ち、理学部教室の完成をまじかに控えている現在、
戦災を受けて痕跡を留めているだけの円覚寺・放生池などの保存のために沖縄の青年たちのための唯一の大学建設が
阻まれなければならない理由がどこにあろう!」と、
新聞に訴えた一人の助教授の主張に、
さすがの照屋先生も黙っておれず、
30ページ以上の論文を書いて反論した。

論文ではなく演説だったら、
おそらく声涙下る悲壮な叫びだったろうと考えられるほどの筆致であった。

照屋先生は南方から復員して沖縄に帰って間もなく、
結核を患い、肺外科手術を受けた。そのせいで、普段の話し方も、
半減した肺活量を絞るように、ゆっくりと声を繋ぐ。
これが、聞き手の心を打つ。

結核回復患者としての自らの体験と国士たる医師としての情熱から、
戦後すぐ厚生事業協会(結核患者の福祉のための団体)の会長となり、
結核患者の本土療養所への送り出しや、授産事業などに献身された。

この5年間の先生の療養生活(プライバシー)を衝いて、
例の助教授が、
いかにもその間を照屋先生が無為不勉強に過ごしたかのように、
つまり文化財の保護に関しては
自分よりも無知だとばかりに論述したものだから、
照屋先生は激怒されたのである。

知る人ぞ知る、照屋寛善医学博士は、
琉球文化・琉球芸能(かぎやで風など)に関しては一家言をなす勉強家で、その辺の腰掛け的な大学教授とは比較にならないほどの
素養の持ち主である。

このような先輩が判断され、推薦したのだから、と、自信を持って、
チョウケイは土地の選定を県庁に具申した。
そして、翌年、衛研を新築移転させる予算が議会で認められ、
庁舎の設計案づくりが、衛研に任されることになった。

民間の住宅の場合でもそうだが、
建物に住んで暮らす人自身が建物の規模や内部構造を勘案して、
悔いのないように設計してもらわないといけない。

そこで、衛研職員全員が参加する仕組みで、建設委員会がスタートした。

委員会にすっかりお任せすることの他に、チョウケイが強調したのは、
第一に、、現在必要なスペースを確保したつもりでも、
将来時代の趨勢と共に、必ず新たなスペースを必要とするときが来る。
そのために、屋根の無い柱だけのスペースを余分に取っておこう、
ということである。

第二に、建築後に台地全体を鬱蒼とした森で包むことで、
そのための余地を周辺に十分に残すことであった。
これは、後で大いに役立った。

大里村の台地に造成された約一万坪の敷地には、早速1975年に
「財団法人沖縄公衆衛生協会・公衆衛生センター」が立地し、
1977年に「沖縄県動物管理所」が建設され、那覇市古波蔵から移転した。

続いて1979年には「沖縄県食肉衛生検査所」が新築移転を果たしている。

衛研は、1980年に丘陵の最上段に建設され、8月に移転した。


大里の丘の上に建つ「衛研」。新築なったばかりの前景。


現在では、記念植樹によって、繁った「アセアンの森」に囲まれている


        
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琉球衛研物語
総インデックス
全72セクション・リンク
§1 全国の衛生研究所とその働き
§2 琉球衛生研究所の生い立ち
§3 衛研の庁舎新築
§4 衛研への本土学者の応援
§5 保健婦のためいき
§6 ハブの啼き声
§7 地から湧く日本脳炎
§8 燃える井戸
§9 アルミニューム工場誘致問題
§10 ワシントン条約とサンシン
§11 ホテルに泊まったニシキヘビ
§12 性病Gメン
§13 毒ガス移送問題
§14 米軍PCP汚染事件
§15 沖縄県公衆衛生協会誕生
§16 牛糞をこねる男
§17ゴールデンシャワーとの出会 い
§18 熱帯花木オンパレード
§19 田熱・レプトスピラ症
§20 テイシューが湧く井戸
§21 蚊が死なない
§22 野ネズミが消えた
§23 バガス病
§24 危し宮古島地下水脈
§25 宮古島地下水対策協議会誕生
§26 水納島上陸作戦
§27 ハブとの住み分け大作戦
§28 国場川を埋め尽くす死魚
§29 南大東島水銀事件
§30 ハブの成長曲線
§31 血清銀行
§32 吹きまくる風疹
§33 轟く基地公害
§34 怒る中山貞則長官
§35 MSA対決
§36 毒牙の生え変わり
§37 寄生虫予防協会誕生
§38 多発する赤痢
§39 魚介類のコバルト汚染問題
§40 シガテラによる食中毒
§41 先天性代謝異常検査開始
§42 「青年の家」とハブ
§43 全校生徒眼が痛い!?
§44 ソロモンの星の下で
§45 平敷式血液塗末標本処理器
§46 古戦場ガダルカナルで
§47 塩漬け琉球列島
§48 中華料理店症候群
§49 逃げたハブ
§50 タリュウム中毒事件
§51 タバコとハブ
§52 ひよこの特攻隊
§53 アフリカマイマイ
§54 杜総明先生との再会
§55 沖縄にも肺吸虫
§56. 衛研、大里の新天地へ
§57 新庁舎建設委員会
§58 コレラ菌安謝川を汚す
§59 クワズイモのえぐ
§60 ハブ探索犬
§61 目下フンセンチュウ
§62 アスベスト撤去作戦
§63 JICAの研修生受け入れ
§64 久高島にハブ
§65 ヴェロニカ製ろ過装置
§66 のた打ち回る島々
§67 サミット先生のこと
§68 カンボジア沖縄友好の会誕生
§69 アセアンの森
§70 チョウケイの転戦
§71 寝たきり予防
§72 郷土劇 “ゆいまある





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