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吉田朝啓が公衆衛生の最前線「衛生研究所」を舞台に描く、
知られざる戦後・沖縄のリアルな裏面史!


コザのゴヤゲート通り。英語の看板と戦前の製糖工場の煙突の取合せの妙。1956年頃
 吉田朝啓

琉球衛研物語

 Ryukyu Eiken Monogatari 1946〜1993

マーロン・ブランド主演映画「八月十五夜の茶屋」のモデルとなった辻の料亭「松乃下」

赤痢、日本脳炎、基地公害、米軍毒ガス移送から、ハブ、性病、アスベスト問題まで、ドクトル吉田朝啓が第五代所長として勤務した「琉球衛生研究所」は、米軍統治を背景に、戦後の沖縄の混乱と復興の中で、ありとあらゆる問題が発生した。ここには、歴史家や、マスコミが取り上げていない、沖縄戦後史に埋もれた特異な陰の部分が横たわっていて、史料的価値が高いばかりか、現代の日米地位協定に基づく、様々な問題と通底していて、見逃せない。
(編集人、サイト制作&運営 樋口謙一)


琉球衛研物語 §16.
牛糞をこねる男


性病、結核、寄生虫病、食品衛生、環境汚染の対策に
明け暮れる保健所・衛研の勤務の間にも、
ときどき沖縄ならではの息抜きのチャンスが訪れる。

トラコーマ防圧研修で台湾行きを命ぜられたり、
マラリア防圧研修所での短期コースにマニラ行きを勧められたりすると、
みんなが一応手を挙げて志願した。

しかし、WHOのこれらの研修コースはすべて英語であるから、
結局は絞られてチョウケイなど
最小限の英語がしゃべれる若手に回ってくる。

これが結構いい刺激になって、
若い医師の公衆衛生分野への定着を促したようである。

医師だけでなく、
当時(1950〜70年)USCAR(琉球列島米国民生府)は、
保健所などの公衆衛生関係職員の現任教育には、
かなり力を注いでくれた。

ハワイにある東西文化センター(East−West Center)の食品衛生、
上下水道、鼠族昆虫駆除、母子保健、公衆衛生看護婦事業など、
短期コースに多くの保健要員が派遣された。

4月のある日、チョウケイが衛研の所長室にいると、
ペース軍曹がズカズカと入ってきた。
ペースは、USCARの保健衛生担当で、
特に公衆衛生分野の研修係として知られていた。

「グッドニュースを持ってきた」という。
ペースは浅黒い肥満体にいっぱいの善意と慎みを湛えたような
人柄のいいやつだ。

「マニラにWHOのマラリア防圧研修所がある、ユーノー。
あそこの3ヶ月コースに一人分席が取れたんだ。
ユー、ドクターヨシダに決めた。OKね」。

アメリカ人には、こういうタイプの人間が少なくない。
善意でやっているんだから、
拒まれるはずがないと押し捲るお人よしである。

善いことの向こう側にも、いろいろな思惑や複雑な事情があり得る
ということなど、トンと頓着しない。
USAという国全体の体質にも似たような傾向があるが、
権限と予算を持った軍人となると、さらにこの傾向は強まる。

でも、善いことを進める場合は、
ペース流のこのような運びの方が小気味がよいのだ。
チョウケイは、しばらく考えて「OK」といった。
ペースも「OK」とチョウケイの背中を叩いて、
巨体をゆすりながら出て行った。

短期とはいっても、7月から3ヶ月の間、
マニラでの勉強はびっしりと詰まったカリキュラムと猛暑で、きつい。

WHOは、世界を五つの地区に大別して、それぞれに事務局を置き、
世界的な保健対策のネットワークを敷いているが、
琉球列島は、当時(1960年代)一国並みの待遇で、
西太平洋事務局の主催する様々な会議や研修に
加わることができたのである。

マニラでのマラリア防圧研修には、
遠くアフガニスタン、パキスタン、インドからも医師が参加していて、
総勢40名のクラスは国際色豊かである。


マニラのWHOマラリア防圧研修所での勉強に参加した筆者(中央、ネクタイ姿)

しかもアジア民族同士として打ち解けるのも早い。
やがて、理論と実技の研修が一通り済むと、一同移動して、
インド奥地でのマラリア地帯視察旅行が続く。

チョウケイにはこれが楽しくてたまらない。
インド亜大陸の炎熱地獄のような夏は、物理的には大変だが、
南米ボリビアのジャングルから帰郷したばかりのチョウケイには、
まだまだ怯懦を退ける勇気と体力があった。

ウジウジと町の中で過ごす安逸よりも、パアーっと広い大陸で、
稚気稚気蛮蛮と埃にまみれて飛び回る暮らしにまだ惹かれていた。

ボンベイの奥に広がるインド亜大陸。
マラリア研修医を乗せた大型ジープ三台は、埃を巻き上げて疾駆していた。

行けども行けども乾いた大地が続く。
ジープがある集落を通過するとき、全員喉の渇きに耐えかねてストップ。
とりあえず、路傍の雑貨店に寄って飲み物を探す。
インドはコレラの名所。こういう長距離の旅の場合、
十分な飲料水を携行するのが常識なんだが・・・。

迂闊に生水を口にしようものなら、一巻の終わり。
医者の沽券にかかわる一大事。それで、一同、
瓶詰めのコーラを注文することにした。

瓶の蓋を自分で開けて、直接自分の口に注ぎ込むという
無作法ながら衛生的な飲み方をみんな考え付いたのである。
だが、中年の男が運んできたコーラを見て、一同唖然となった。

気を利かせ過ぎた小父さん、人数分のコップにコーラを注いで、
そのコップの中にありったけの指を突っ込んで運んできたのである。
その小父さん、さきほど路上の新鮮な牛糞を素手で掬って
壁に塗りつけていた場面を目撃されたばかりである。

これは、強烈なショックであった。
旅先で経験するほどほどのカルチャーショックの場合は、
かえって楽しいもの。
異なった文化や生活習慣に出会うときの軽いおどろきや
共通項を見出したときのほろりとした親和感。

文化の差の間に揺れる心の振り子が、
様々な方向に心の容量を押し広げてくれて、
雅量が養われていく感じは旅の醍醐味である。

しかし、公衆衛生専門医としてのチョウケイにとって、
コーラと牛糞の直結は恐怖である。
悪戯好きのチョウケイは即座にコップの中の指をカメラに収め、
続いて、小父さんを壁の前に連れて行き、
牛糞をこねてもらって撮影した。

予防医学の分野で、「糞口感染症」という概念がある。
人間(ときに動物)の糞便から出た病原体が、
巡りめぐって人間の口に達して病気を引き起こす。

糞から口までのルートにはいろいろあるが、
戦後の一時期日本人を悩ませた腸内寄生虫病もその典型例だし、
赤痢、腸チフス、病原性大腸菌感染症、
ノロヴィールスによる下痢などもこれに含まれる。

世界人口60億の内、半数以上が腹の虫や急性伝染病にかかり、
その多くが生命を落としている。ほとんどが熱帯の国々だが、
インドは世界一の“糞口感染症王国”といえよう。

牛を大事にする宗教と生活習慣、
個人および公衆の衛生に関する教育の遅れが根本にある。


インドの街中の聖なる牛



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琉球衛研物語
総インデックス
全72セクション・リンク
§1 全国の衛生研究所とその働き
§2 琉球衛生研究所の生い立ち
§3 衛研の庁舎新築
§4 衛研への本土学者の応援
§5 保健婦のためいき
§6 ハブの啼き声
§7 地から湧く日本脳炎
§8 燃える井戸
§9 アルミニューム工場誘致問題
§10 ワシントン条約とサンシン
§11 ホテルに泊まったニシキヘビ
§12 性病Gメン
§13 毒ガス移送問題
§14 米軍PCP汚染事件
§15 沖縄県公衆衛生協会誕生
§16 牛糞をこねる男
§17ゴールデンシャワーとの出会 い
§18 熱帯花木オンパレード
§19 田熱・レプトスピラ症
§20 テイシューが湧く井戸
§21 蚊が死なない
§22 野ネズミが消えた
§23 バガス病
§24 危し宮古島地下水脈
§25 宮古島地下水対策協議会誕生
§26 水納島上陸作戦
§27 ハブとの住み分け大作戦
§28 国場川を埋め尽くす死魚
§29 南大東島水銀事件
§30 ハブの成長曲線
§31 血清銀行
§32 吹きまくる風疹
§33 轟く基地公害
§34 怒る中山貞則長官
§35 MSA対決
§36 毒牙の生え変わり
§37 寄生虫予防協会誕生
§38 多発する赤痢
§39 魚介類のコバルト汚染問題
§40 シガテラによる食中毒
§41 先天性代謝異常検査開始
§42 「青年の家」とハブ
§43 全校生徒眼が痛い!?
§44 ソロモンの星の下で
§45 平敷式血液塗末標本処理器
§46 古戦場ガダルカナルで
§47 塩漬け琉球列島
§48 中華料理店症候群
§49 逃げたハブ
§50 タリュウム中毒事件
§51 タバコとハブ
§52 ひよこの特攻隊
§53 アフリカマイマイ
§54 杜総明先生との再会
§55 沖縄にも肺吸虫
§56. 衛研、大里の新天地へ
§57 新庁舎建設委員会
§58 コレラ菌安謝川を汚す
§59 クワズイモのえぐ
§60 ハブ探索犬
§61 目下フンセンチュウ
§62 アスベスト撤去作戦
§63 JICAの研修生受け入れ
§64 久高島にハブ
§65 ヴェロニカ製ろ過装置
§66 のた打ち回る島々
§67 サミット先生のこと
§68 カンボジア沖縄友好の会誕生
§69 アセアンの森
§70 チョウケイの転戦
§71 寝たきり予防
§72 郷土劇 “ゆいまある”





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