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吉田朝啓が公衆衛生の最前線「衛生研究所」を舞台に描く、
知られざる戦後・沖縄のリアルな裏面史!


コザのゴヤゲート通り。英語の看板と戦前の製糖工場の煙突の取合せの妙。1956年頃
 吉田朝啓

琉球衛研物語

 Ryukyu Eiken Monogatari 1946〜1993

マーロン・ブランド主演映画「八月十五夜の茶屋」のモデルとなった辻の料亭「松乃下」

赤痢、日本脳炎、基地公害、米軍毒ガス移送から、ハブ、性病、アスベスト問題まで、ドクトル吉田朝啓が第五代所長として勤務した「琉球衛生研究所」は、米軍統治を背景に、戦後の沖縄の混乱と復興の中で、ありとあらゆる問題が発生した。ここには、歴史家や、マスコミが取り上げていない、沖縄戦後史に埋もれた特異な陰の部分が横たわっていて、史料的価値が高いばかりか、現代の日米地位協定に基づく、様々な問題と通底していて、見逃せない。
(編集人、サイト制作&運営 樋口謙一)


琉球衛研物語 §15.
沖縄県公衆衛生協会誕生


1966年、9月。
チョウケイがロンドンのヒースロー空港に降り立った時、
季節はすでに晩秋で霧がかかり始めていた。

小雨と霧とが入り混じって、
沖縄の青空から飛んできたチョウケイにとっては、
ロンドンの初印象は中の下くらいであった。

ブリティシュ・カウンセル(日本のJICAのように外国人学生などの受け入れを担当する機関)の指示通り、タクシーに乗ってとりあえず市内に向かう。

「どこへ?」と訊くので「ロンドンスクールの・・・」と言いかけると、
「ケッペルストリート!」と即座に答えて、
後はまるで一本道を行くように走って、
ピタリとロンドン大学熱帯医学部の正門前に着けてくれた。


筆者が留学したロンドン大学全景

運転手が口にした“ケッペルストリート”は、
数百メートルのでかい街路かと想像していた
チョウケイが拍子抜けするほどの小さい横丁で、
全長わすか50メートルほどの裏路地であった。

因みに、ロンドンのタクシー運転手の道案内に関する練達のレベルは
世界的に有名で、
何千人の免許申請者が厳しい試験を受けて
ロンドン市内のすべての道路名を遅滞無く言えるほどになって
初めてプロの公認ドライバーとなる。

ロンドンはすべての街路や路地に固有名詞が付けられているから、
これをすべて覚えていなければならない。
「儀保町3丁目!」といっても、「儀保って、どこ?」と聞き返すほどの、
不勉強で大らかな沖縄のタクシー運転手とは鍛え方が違うのである。

ところで、ケッペルストリートに降り立ったチョウケイにとって、
それからの一年は苦難の連続であった。
厳しい学科と試験、寒い気候、
侘しさと空腹「フィーサン、ヤーサン、シカラーサン」の毎日。

そんな孤立無援のある日。
クリスマスイブの午後、事務所に呼び出しがかかって、
受話器をとったら、「はーい、ヨシダせんせい!イサです」と、明るい声。

咄嗟に思い出した。
たしかUSCARのペース係官に、
ロンドンにはもう一人沖縄から医師一人が留学生として派遣されていると、出発直前に言われていたっけ。

ここにきてからそれを思い出すなんて。
「イサって、石川保健所の伊佐先生?」と、訊くと、
「そう、半年前にここにきているんですよ」、
「どう、今日、うちでクリスマスやりませんか」という。

伊佐先生の留学先がロンドン大学ではなくて、
かなり離れた王立医学院であったことが
連絡不十分の原因だったのだろう。

ケッペルストリートまで車で迎えにきてもらって、
伊佐先生のアパートにいく。
奥様と長男坊お一人の家族ぐるみの留学。
羨ましいと思うと同時に、ホッとして、
皆さんホトケのように見えるのだった。

奥さん手作りの寿司とテンプラと味噌汁。
酒も日本酒だ。ロンドンには、日本食の食材がなんでも手に入るという。
日本料理店も多い。そんな有難い話を聞いていて、
気持ちがすっかり落ち着いてきた。

食事が済んで、二人きりになったとき、伊佐先生がしみじみといった。
「ねー先生、沖縄もようやく医療陣も増えて、
医療事情がよくなってきたが、ロンドンに来てつくづく感じるんだが、
治療分野だけ整ってもだめで、病気の予防とか公衆衛生にも
もっと力をいれなければならないのではないか。

公衆衛生看護婦の活動とか、公衆衛生関係の民間団体を
もっと増やして官民共同の公衆衛生活動を盛り上げる必要を
感じるのですがね」。

伊佐先生の話は、いままで溜めてあった胸中の夢を吐き出すかのように、熱っぽく、整然としていた。

公衆衛生を学びにロンドンに来てはいても、まだ半年にもならず、
毎日ヒーサン・ヤーサンの生活を送っているチョウケイにとって、
伊佐先生のこの諄々と説く話は、
奥さんの暖かい味噌汁との相乗効果もあって、
心の栄養剤となるものだった。

琉球育英会の奨学資金で本土の大学に留学し、卒業し、
医師国家試験も無事パスし、医師免許も取得したものの、
ろくに卒後教育も受けさせてもらえないまま、
契約通りに帰郷し、臨床医学(開業医の道)へ行くか、
学者・研究者の道をとるか、暗中模索の最中に半強制的に
ロンドン留学させられているチョウケイにとって、
暗雲垂れ込める空から射し込む一条の光のような意見であった。

「ねえ、先生、沖縄に帰ったら、公衆衛生の民間団体を作ろうよ」
「行政がやるべくしてやれない分野の重要な仕事がたくさんあるでしょう」
「病気になる前に、病気にならんように、
健康を保つための学問や技術がロンドンでは勉強できる」
「一足先に帰っていますから、
一緒に公衆衛生協会みたいな団体を立ち上げましょう」。

もともと、“国士たるを期す”なんて、
子供の頃から稚気と赤心に満ちていたチョウケイの性格である。
公衆のために生きることを埋れ火のように志していたチョウケイなので、
伊佐先生の説諭にはコロリとやられた。

「よーし、公衆衛生だ! これに活路を見出そう」
「行き倒れてもよし、この道を往く、だ」。

1969年、3月8日、那覇看護学校で、
財団法人沖縄県公衆衛生協会設立総会が開催された。

1960年代、沖縄では、数多くの民間公益法人が誕生した。
精神衛生協会、らい予防協会、三悪追放協会、結核予防会、
厚生事業協会、寄生虫予防協会。

民間人がスクラムを組んで行政を補完した。
そのような多くの民間団体が揺籃期に
一時衛研の一室を間借りして発育し、
巣立っていったという沖縄ならではの経緯は特筆に価する。



現在の財団法人・沖縄県公衆衛生協会。南城市大里の丘陵地に建設された


大里の丘の上に勢揃いした沖縄県の研究施設


次のセクション「§16.牛糞をこねる男」へ




琉球衛研物語
総インデックス
全72セクション・リンク
§1 全国の衛生研究所とその働き
§2 琉球衛生研究所の生い立ち
§3 衛研の庁舎新築
§4 衛研への本土学者の応援
§5 保健婦のためいき
§6 ハブの啼き声
§7 地から湧く日本脳炎
§8 燃える井戸
§9 アルミニューム工場誘致問題
§10 ワシントン条約とサンシン
§11 ホテルに泊まったニシキヘビ
§12 性病Gメン
§13 毒ガス移送問題
§14 米軍PCP汚染事件
§15 沖縄県公衆衛生協会誕生
§16 牛糞をこねる男
§17ゴールデンシャワーとの出会 い
§18 熱帯花木オンパレード
§19 田熱・レプトスピラ症
§20 テイシューが湧く井戸
§21 蚊が死なない
§22 野ネズミが消えた
§23 バガス病
§24 危し宮古島地下水脈
§25 宮古島地下水対策協議会誕生
§26 水納島上陸作戦
§27 ハブとの住み分け大作戦
§28 国場川を埋め尽くす死魚
§29 南大東島水銀事件
§30 ハブの成長曲線
§31 血清銀行
§32 吹きまくる風疹
§33 轟く基地公害
§34 怒る中山貞則長官
§35 MSA対決
§36 毒牙の生え変わり
§37 寄生虫予防協会誕生
§38 多発する赤痢
§39 魚介類のコバルト汚染問題
§40 シガテラによる食中毒
§41 先天性代謝異常検査開始
§42 「青年の家」とハブ
§43 全校生徒眼が痛い!?
§44 ソロモンの星の下で
§45 平敷式血液塗末標本処理器
§46 古戦場ガダルカナルで
§47 塩漬け琉球列島
§48 中華料理店症候群
§49 逃げたハブ
§50 タリュウム中毒事件
§51 タバコとハブ
§52 ひよこの特攻隊
§53 アフリカマイマイ
§54 杜総明先生との再会
§55 沖縄にも肺吸虫
§56. 衛研、大里の新天地へ
§57 新庁舎建設委員会
§58 コレラ菌安謝川を汚す
§59 クワズイモのえぐ
§60 ハブ探索犬
§61 目下フンセンチュウ
§62 アスベスト撤去作戦
§63 JICAの研修生受け入れ
§64 久高島にハブ
§65 ヴェロニカ製ろ過装置
§66 のた打ち回る島々
§67 サミット先生のこと
§68 カンボジア沖縄友好の会誕生
§69 アセアンの森
§70 チョウケイの転戦
§71 寝たきり予防
§72 郷土劇 “ゆいまある”





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