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吉田朝啓が公衆衛生の最前線「衛生研究所」を舞台に描く、
知られざる戦後・沖縄のリアルな裏面史!


ドル交換所風景
 
吉田朝啓

琉球衛研物語

 Ryukyu Eiken Monogatari 1946〜1993

米軍毒ガスから命を守ろう横断幕

赤痢、日本脳炎、基地公害、米軍毒ガス移送から、ハブ、性病、アスベスト問題まで、ドクトル吉田朝啓が第五代所長として勤務した「琉球衛生研究所」は、米軍統治を背景に、戦後の沖縄の混乱と復興の中で、ありとあらゆる問題が発生した。ここには、歴史家や、マスコミが取り上げていない、沖縄戦後史に埋もれた特異な陰の部分が横たわっていて、史料的価値が高いばかりか、現代の日米地位協定に基づく、様々な問題と通底していて、見逃せない。
(編集人、サイト制作&運営 樋口謙一)


琉球衛研物語 §04
衛研への本土学者の応援



新築なった旧衛研ビル(昭和33年、1958年落成現在のパレットくもじ付近、
モノレール「県庁前駅」の位置にあった。3階建ての近代的ビルであった。


1958年11月、
久茂地川沿い(現パレットくもじの位置)に新装成った衛研ー
総工費79,403ドル、総坪数300坪、ブロック3階建、
変電室10坪、ボイラー室24坪。、3年がかりの小刻み支出で、
すべて琉球政府自前の予算で完成。

実験動物小屋と焼却炉ができたのは1960年であった。
照屋寛善所長、療養後の不安な健康状態ながら、
勇躍新庁舎に乗り込み、再び考えた。

「最小限の器はできた。“事業は人なり”という。今度は人材だ。
行政の科学的拠点にふさわしい人材を集めなければならない。」

 職員数26名なり。


すでに衛研のスタッフとしてフル回転していた
ベテラン衛生検査技師の数名に加えて、
新たに本土から帰郷した獣医師・薬剤師が参加し、
小規模ながら一騎当千の陣容が整った。


このように、戦後沖縄における基礎医学および公衆衛生分野の諸活動は、日琉医学の活発な交流によって大きく刺激され、前進した。

創立間もない衛研の質的向上も、
これらの学術交流・技術導入によってのみ
可能であったといっても過言ではない。

学者は学問の真空地帯を許さない。
未開発の学問の分野を本能的に嗅ぎ付けて挺身する。
終戦直後から衛研創立までの15年間、県民の衛生状態は低迷し、
各種の風土病が猖獗を極めていた。

その頃、日本の施政権の及ばない沖縄ではあるが、
学者は学者としての責任感と日本人としての母性本能のような
思いを募らせていたのだろう。

1957年、一番近い鹿児島県から鹿児島大学第二内科が調査団を派遣。衛研との共同で沖縄本島南部で寄生虫の疫学調査を展開。
腸内寄生虫の蔓延を明らかにした。

1958年、東京大学伝染病研究所(後、医科学研究所)
佐々学教授・沢井芳男教授が衛研との共同調査を開始、
腸内寄生虫病とハブ咬症について
基礎的な疫学調査の方法論を打ち立てた。

これによって、
寛善先生の名著「琉球列島におけるハブ咬症の疫学的研究」が
後ほど発表されることになる。

これら一連の調査によって、
北部の地方病ともいえる肺ジストマ(肺吸虫症)の幼虫(メタセルカリア)が宜野座村の河川で採集されたモクズガニから発見されるなど、
俄かに衛研の疫学活動が活発になっていった。

しかし、陣容も揃い、調査研究の業務も活発になっていくに従い、
今度は研究所内の設備・備品が極めて貧弱であることが明らかになり、
目立つようになってきた。

「がら空きの衛研ビル。300坪に15名の職員」という見出しで
新聞に紹介され、「設置されるべき備品は少なく、各部屋ともがら空き。
毎日広いビルを掃除するのにも一苦労」などと皮肉られた。

その頃、衛生技術者の講習と検査施設視察のため来島していた
東京都立衛生研究所微生物科長(後の所長)辺野喜正夫博士は、
検査研究施設が全くなってない点を指摘して次のように語った。

「那覇をはじめ保健所や病院の検査室を視察し話しを聞いてきたが、
技術者は向上心に燃え、研究意欲は極めて強いが、
それに応じた設備、資材が伴ってない。
医療は事務とは違い、学問である。
学問の進歩に絶えず追いついていかなければ
正しい検査・診断はできない。
沖縄では、専門図書もなければ雑誌さえもない。正に驚きである。
これが技術者の情熱を失わせてしまう」(1961年2月22日;沖縄タイムス)と、またまた行政への頂門の一針。 

衛研の新しい陣容を陣頭指揮してリードする体力は
まだ回復してなかったが、寛善先生、
マスコミを効率的に活用することが上手で、
「正論が通じなければ世論に訴える」という信念をお持ちだった。

筆者吉田朝啓は、1970年からおよそ20年間、
衛研の第五代所長を勤めたが、
歴代の所長(花城清剛初代所長、照屋寛善第二代所長、仲地紀良第三代所長、宮城普吉第四代所長)のご功績に牽引される形で、
有能でまじめな同僚職員にも恵まれて、職責を全うすることができた。

 
第3代仲地紀良所長

 
第4代宮城普吉所長


 第5代所長吉田朝啓(筆者) (いずれの写真も、創立50周年記念誌より)

一施設長としての20年の勤めは長すぎた。
が、祖国復帰を挟んでの激動の沖縄で、
衛研と共に著者が体験した事件の数々は、
それぞれが沖縄の戦後史の流れの中の踏み石のような史実で、
そのまま忘却の砂で埋めてしまうのはもったいないほど
意味が大きいと思われる。

衛研が遭遇した事件のあるものは、
いまでも問題性を提供し続ける懸案事項であったり、
反面教師として意味深長な示唆を与えるものであると考えられる。

また、創立以来数百名の研究所歴代職員は、
華々しく喧伝される所長の動きとは違って、表に出ることなく、
黙々として職務に精励し、やがてみな一線を退いた。

本稿では、これら衛研スタッフの地道な活躍を
一つ一つの事件と共に表に出す事を第一の狙いとした。

筆者吉田朝啓を<チョウケイ>という代名詞の語り部として登場させ、
事実を基に多少のフィクションを交えて綴ったが、
登場する人物で、健在者の多くは、仮名を用いた。

<写真:那覇保健所 (該当画像探索中、入手次第掲載)>


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琉球衛研物語
総インデックス
全72セクション・リンク
§1 全国の衛生研究所とその働き
§2 琉球衛生研究所の生い立ち
§3 衛研の庁舎新築
§4 衛研への本土学者の応援
§5 保健婦のためいき
§6 ハブの啼き声
§7 地から湧く日本脳炎
§8 燃える井戸
§9 アルミニューム工場誘致問題
§10 ワシントン条約とサンシン
§11 ホテルに泊まったニシキヘビ
§12 性病Gメン
§13 毒ガス移送問題
§14 米軍PCP汚染事件
§15 沖縄県公衆衛生協会誕生
§16 牛糞をこねる男
§17ゴールデンシャワーとの出会 い
§18 熱帯花木オンパレード
§19 田熱・レプトスピラ症
§20 テイシューが湧く井戸
§21 蚊が死なない
§22 野ネズミが消えた
§23 バガス病
§24 危し宮古島地下水脈
§25 宮古島地下水対策協議会誕生
§26 水納島上陸作戦
§27 ハブとの住み分け大作戦
§28 国場川を埋め尽くす死魚
§29 南大東島水銀事件
§30 ハブの成長曲線
§31 血清銀行
§32 吹きまくる風疹
§33 轟く基地公害
§34 怒る中山貞則長官
§35 MSA対決
§36 毒牙の生え変わり
§37 寄生虫予防協会誕生
§38 多発する赤痢
§39 魚介類のコバルト汚染問題
§40 シガテラによる食中毒
§41 先天性代謝異常検査開始
§42 「青年の家」とハブ
§43 全校生徒眼が痛い!?
§44 ソロモンの星の下で
§45 平敷式血液塗末標本処理器
§46 古戦場ガダルカナルで
§47 塩漬け琉球列島
§48 中華料理店症候群
§49 逃げたハブ
§50 タリュウム中毒事件
§51 タバコとハブ
§52 ひよこの特攻隊
§53 アフリカマイマイ
§54 杜総明先生との再会
§55 沖縄にも肺吸虫
§56. 衛研、大里の新天地へ
§57 新庁舎建設委員会
§58 コレラ菌安謝川を汚す
§59 クワズイモのえぐ
§60 ハブ探索犬
§61 目下フンセンチュウ
§62 アスベスト撤去作戦
§63 JICAの研修生受け入れ
§64 久高島にハブ
§65 ヴェロニカ製ろ過装置
§66 のた打ち回る島々
§67 サミット先生のこと
§68 カンボジア沖縄友好の会誕生
§69 アセアンの森
§70 チョウケイの転戦
§71 寝たきり予防
§72 郷土劇 “ゆいまある”





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