トップページへ戻る衛研物語について筆者紹介沖縄戦後史年表リンク掲示板お知らせ・更新| mail: chokei@nirai.ne.jp

吉田朝啓が公衆衛生の最前線「衛生研究所」を舞台に描く、
知られざる戦後・沖縄のリアルな裏面史!


ドル交換所風景
 
吉田朝啓

琉球衛研物語

 Ryukyu Eiken Monogatari 1946〜1993

米軍毒ガスから命を守ろう横断幕

赤痢、日本脳炎、基地公害、米軍毒ガス移送から、ハブ、性病、アスベスト問題まで、ドクトル吉田朝啓が第五代所長として勤務した「琉球衛生研究所」は、米軍統治を背景に、戦後の沖縄の混乱と復興の中で、ありとあらゆる問題が発生した。ここには、歴史家や、マスコミが取り上げていない、沖縄戦後史に埋もれた特異な陰の部分が横たわっていて、史料的価値が高いばかりか、現代の日米地位協定に基づく、様々な問題と通底していて、見逃せない。
(編集人、サイト制作&運営 樋口謙一)


琉球衛研物語 §03
衛研の庁舎新築


1954年、国頭の羽地村呉我区に突然赤痢が流行した。

戦後初めての集団発生であったことから、当局が動揺し、
交通制限を徹底したため、交通関係者から非難の声が上がる中、
衛研の微生物斑が戦前戦後を通じて
初めて赤痢菌の検出に成功するなど、大きな話題となった。

当時、赤痢が各地で流行し、当局が対応に追われたが、
1955年、糸満町(現糸満市)で腸チフス患者が多数発生し、
社会を震撼させた。

粗末な屋外便所が散在する住宅地に
これまた粗末な掘りぬき井戸が散在する糸満の住居環境が
流行の原因だということは明白であったが、
米軍政府が事態を重視して、琉球政府に至上命令を下した。

「衛研に専任のドクターを配置すること、
腸チフス流行の原因を早く究明すること」。

花城所長の転勤により空席となっていた衛研の所長に、
1956年4月、照屋寛善医師が赴任した。

 第2代照屋寛善所長(創立50周年記念誌より)

穴倉のような部屋と職員9名はそのまま。
照屋先生は結核の長い療養生活から職場復帰したばかりで、
この息苦しい職場環境にたじろいだ。

片肺切除によって肺活量は半分である。
「私にはとても勤まりません、と言って断ったんだがね、
保健所の別の部屋で寝たまんま療養しながらでもいいからと、
むりやり押し付けられたよ」と、寛善先生は述懐する。

当時、沖縄戦を生き延びた医師は終戦直後で僅かに60名余。
1950年になると外地からの帰還者を加えて
ようやく131名に増えたが、
1954年以降の医師の自由開業制度の展開によって、
全県に散って住民の診療に当たる臨床医を除けば、
もう保健所や衛研などいわゆる公衆衛生の分野に
医師を配置する余裕はなかった。

いうなれば“医者の端境期”である。
否、医療界に限らず、
沖縄全体が戦後社会を担う人材の端境期にあったといえる。

その頃(1950年10月18日)、病床にあって療養に努めながら、
沖縄の医療の現状を眺め渡した寛善先生は、
特に医師数の余りにも少ない実態に驚き、
沖縄全体の医療の窮乏状態に心を痛めて、
「全住民に訴える〜〜沖縄医療界の危機」と題する論評を
地元のヘラルド紙に発表した。

論評の中で、寛善先生が強調した問題点は、五つ。
@ 医師の絶対数が少なく、医師の過労死が多いこと。
 (5年間に13人死亡)
A 戦中戦後の医師の消耗に対して計画的な補充がなされていないこと。
B 医療制度そのものが欠陥だらけであること。
C 医療設備の不備。
D 民衆の無知。

1950年に琉球大学が創立され、
人材育成の大きな一歩が踏み出されたばかり。
米国留学に次いで、本土大学への契約留学制度がスタートして、
医学部への進学がようやく始まったばかりである。
しかし、医師一人が育つまでには8年から10年かかるのだ。

寛善先生、さらに寝ながら考えた。
「一国(当時は琉球政府)の衛生行政を支えるには、
まず医師の絶対数を増やすことだが、
同時に科学的調査研究機関を充実させることが不可欠である」と。

しかし、科学的調査研究機関って、どういうものか。
衛生行政にとってどんなに大切なものか、
一般の県民も行政官もわかっていない時代だ。
飲まず食わずの窮乏時代に、
そんな胡乱な研究施設は要らんと言われるのがオチである。

そこで、寛善先生は、奥の手を考えた。
本土の学者を呼ぶことにしたのである。

1956年、国立衛生試験所所長刈米達夫博士を招聘し、
県内の保健所と衛研を視察してもらった。
「衛生研究所は、その国や地方の文化のバロメーターといわれ、
どの国も衛生の調査・研究には力を注いでいるが、 
衛研は那覇保健所の一室を借りて、
狭くて窓のない粗末な部屋で照屋所長以下職員12名が
毎日細菌と取り組んで頑張っている。

琉球政府はもっと衛生研究所施設の改善に力を入れるべきだ」と、
頼みもしないのに、
ずばり頂門の一針ともいえる批判を琉球政府にぶっつけてくれた。

寛善先生は、手を緩めることなく引き続き本土の学者を次々と招聘した。
佐藤八郎、米沢藤士、尾辻義人、福島英雄(鹿児島大)、佐々学、
佐藤孝慈(東大伝染病研究所)、加納六郎(医科歯科大)、
森下薫(大阪大)、大鶴正満(新潟大)、安倍弘毅(久留米大)、
遠城寺康徳(九州大)、北村精一、戸倉登、麻生卓郎、
吉田静磨、片峰大介、大森南三郎、相沢龍、野北道夫、林薫、
末永修(長崎大)、辺野喜正夫(東京都立衛生研究所所長)。


新潟大学・大鶴正満教授(寄生虫学)も沖縄応援のために来県された(左から2人目、筆者・左端)

日本の誇る熱帯医学・疫学の錚錚たる学者を招き、
衛研をはじめ各保健所、療養所、病院などの
試験検査業務の指導をお願いした。

学者の方は、みなさん自費負担で快くお引き受け下さった。
「大医は国を医す」というが、
照屋寛善先生、病弱の身でありながら、
正に大医となってこれだけの大仕事を成し遂げたのである。

その結果、一連の講習会を機会に、琉球衛生検査協会が誕生し、
衛生検査技師の親睦と研修の拠点が整備され、
そして待ち望まれた衛研が1958年11月に竣工した。



次のセクション「§4.衛研への本土学者の応援」へ




琉球衛研物語
総インデックス
全72セクション・リンク
§1 全国の衛生研究所とその働き
§2 琉球衛生研究所の生い立ち
§3 衛研の庁舎新築
§4 衛研への本土学者の応援
§5 保健婦のためいき
§6 ハブの啼き声
§7 地から湧く日本脳炎
§8 燃える井戸
§9 アルミニューム工場誘致問題
§10 ワシントン条約とサンシン
§11 ホテルに泊まったニシキヘビ
§12 性病Gメン
§13 毒ガス移送問題
§14 米軍PCP汚染事件
§15 沖縄県公衆衛生協会誕生
§16 牛糞をこねる男
§17ゴールデンシャワーとの出会 い
§18 熱帯花木オンパレード
§19 田熱・レプトスピラ症
§20 テイシューが湧く井戸
§21 蚊が死なない
§22 野ネズミが消えた
§23 バガス病
§24 危し宮古島地下水脈
§25 宮古島地下水対策協議会誕生
§26 水納島上陸作戦
§27 ハブとの住み分け大作戦
§28 国場川を埋め尽くす死魚
§29 南大東島水銀事件す死魚
§29 南大東島水銀事件
§30 ハブの成長曲線
§31 血清銀行
§32 吹きまくる風疹
§33 轟く基地公害
§34 怒る中山貞則長官
§35 MSA対決
§36 毒牙の生え変わり
§37 寄生虫予防協会誕生
§38 多発する赤痢
§39 魚介類のコバルト汚染問題
§40 シガテラによる食中毒
§41 先天性代謝異常検査開始
§42 「青年の家」とハブ
§43 全校生徒眼が痛い!?
§44 ソロモンの星の下で
§45 平敷式血液塗末標本処理器
§46 古戦場ガダルカナルで
§47 塩漬け琉球列島
§48 中華料理店症候群
§49 逃げたハブ
§50 タリュウム中毒事件
§51 タバコとハブ
§52 ひよこの特攻隊
§53 アフリカマイマイ
§54 杜総明先生との再会
§55 沖縄にも肺吸虫
§56. 衛研、大里の新天地へ
§57 新庁舎建設委員会
§58 コレラ菌安謝川を汚す
§59 クワズイモのえぐ
§60 ハブ探索犬
§61 目下フンセンチュウ
§62 アスベスト撤去作戦
§63 JICAの研修生受け入れ
§64 久高島にハブ
§65 ヴェロニカ製ろ過装置
§66 のた打ち回る島々
§67 サミット先生のこと
§68 カンボジア沖縄友好の会誕生
§69 アセアンの森
§70 チョウケイの転戦
§71 寝たきり予防
§72 郷土劇 “ゆいまある”





トップページへ戻る衛研物語について筆者紹介沖縄戦後史年表リンク掲示板お知らせ・更新 mail: chokei@nirai.ne.jp
Copyright © Yoshida Chokei. All Rights Reserved.

inserted by FC2 system