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吉田朝啓が公衆衛生の最前線「衛生研究所」を舞台に描く、
知られざる戦後・沖縄のリアルな裏面史!


ドル交換所風景
 
吉田朝啓

琉球衛研物語

 Ryukyu Eiken Monogatari 1946〜1993

米軍毒ガスから命を守ろう横断幕

赤痢、日本脳炎、基地公害、米軍毒ガス移送から、ハブ、性病、アスベスト問題まで、ドクトル吉田朝啓が第五代所長として勤務した「琉球衛生研究所」は、米軍統治を背景に、戦後の沖縄の混乱と復興の中で、ありとあらゆる問題が発生した。ここには、歴史家や、マスコミが取り上げていない、沖縄戦後史に埋もれた特異な陰の部分が横たわっていて、史料的価値が高いばかりか、現代の日米地位協定に基づく、様々な問題と通底していて、見逃せない。
(編集人、サイト制作&運営 樋口謙一)


琉球衛研物語 §02
琉球衛生研究所の生い立ち


「沖縄中央衛生試験所」は、
現在の沖縄市ゴヤ十字路近くににできた沖縄中央病院の構内に誕生した。

でも、組織上は中央病院の“検査試験科”であり、
病院関係の様々な臨床試験をこなすのが主務であった。

もし、その後も病院の臨床試験だけに明け暮れていたら、
病院の組織の一部に終始したであろうこの小さな施設は、
間もなく独自の活動を展開した。


院内に留まらず、院外に出て、
広く風土病調査や様々な疫学調査を早々と手がけたのである。

沖縄本島中部だけでなく、遠く宜野座村辺りにも出かけて、
腸内寄生虫病、、赤痢、マラリア、フィラリアなどの調査に活躍した。

それぞれの調査は非常に小規模で、散発的であったが、
院外に出て住民の間に潜む疫病を探るという行為は、
すでに立派な疫学活動であり、
後に衛生研究所としての在り様を論議するときに
重要なポイントになるということである。

これらの院外活動を推進し励ましたのは、
沖縄戦を生き抜いた医師たち(初代所長家坂三郎医師、
第二代所長千原成梧医師)であったが、
中軸となって野外で活動したのは、
国吉真英技師(獣医師、医学博士)、城間盛吉技師らで、
衛研誕生の助産婦的役割を果たしたといえる。

全国の都道府県に衛生研究所があり、
地方衛生研究所協議会という組織があることは既述の通りだが、
地方衛生研究所の機能として挙げられている三つの要諦は、
@ 試験・検査、A 調査・研究、B 訓練・研修である。

この三つの機能を備えていなければ地方衛生研究所とは呼び難い。
それほど調査と研究は衛生研究所としては重要な資格なのである。

その資格を先取りする形で、1946年春に誕生した
「沖縄中央衛生試験所」は住民の間に疫学調査活動を展開した。

そして、感心させられるのは、
間もなく医療要員の養成のための訓練・研修も発足させたことである。

戦雲がようやく収まった頃(1950年代)、
「沖縄中央衛生試験所」に、新制高校を卒業した若者を中心に
旧制中学卒や専門学校中退の青年らが全島から集められた。
臨床検査技師の研修講座のスタートである。

3名の女性を含む20名の研修生は
各地の高校を卒業した気鋭の若者が中心で、
講師にはやはり沖縄戦を生き抜いた医師たち
(稲福全志第三代所長、宮城普吉第七代所長)や
獣医師たち(福地清行、他)であった。

戦後沖縄の各分野に共通することだが、
戦前の有識者や専門家が生き残り、戦後になって、
空白になりがちな教育や人材育成に貢献したという史実は
特筆すべきことで、これら中継ぎ陣の活躍によって、戦後の復興、
特に教育の再興は中断することなく成し遂げられたといえよう。

20名の臨床検査技師は、
卒後、各地の医療施設や研究所に配置され、
あるいはその後、医師となり、薬剤師となり、環境衛生監視のプロとなって、戦後沖縄のナカバーヤ(大黒柱)として大活躍する。

1952年4月、
それまで「沖縄群島政府」「宮古群島政府」「八重山群島政府」
「大島群島政府」と分散して設置されていた
沖縄の地方自治体が統一されて「琉球政府」となった。

それに伴って、「中央衛生試験所」と呼ばれてきた検査機関が
「琉球衛生研究所」と改称され、衛研が正式にスタートした。

しかし、スタートはしたものの、衛研独自の庁舎はまだない。
仕方なく、一足先に(現在のパレットくもじ辺りに)新築された
那覇保健所の一室を借りして、業務を開始した。

 初代花城清剛所長(創立50周年記念誌より)

「狭い廊下の両側にハーモニカのような部屋が並んでいて、
その角の部屋に押し込められたよ」
「窓が無く、クーラーもなく、換気の効かない薄暗い部屋で、
職員9名、汗みどろになって働いた」と、
衛研初代所長花城清剛先生は述懐する。

梅毒や結核の菌培養に使う培地を造って
各保健所に提供するのが主務であったが、
もちろん様々な臨床検査や疫学調査もこなした。

この頃が衛研の一番苦しい時代で、
NICU(新生児集中管理装置)に入れられたような状態だったといえる。

<写真:第一回衛生検査技師講習会(該当画像探索中、入手次第掲載)>

* 戦災いまだ癒えず経済基盤の貧弱な琉球政府への援助資金は
当然施政権者である米国が負担すべきであるが、
琉球援助資金は1952年琉球政府発足以後は急速に減額され、
その煽りを食って衛研の未整備状態が続いた。

次のセクション「§3 衛研の庁舎新築」へ




琉球衛研物語インデックス
全72セクション・リンク

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§1 全国の衛生研究所とその働き
§2 琉球衛生研究所の生い立ち
§3 衛研の庁舎新築
§4 衛研への本土学者の応援
§5 保健婦のためいき
§6 ハブの啼き声
§7 地から湧く日本脳炎
§8 燃える井戸
§9 アルミニューム工場誘致問題
§10 ワシントン条約とサンシン
§11 ホテルに泊まったニシキヘビ
§12 性病Gメン
§13 毒ガス移送問題
§14 米軍PCP汚染事件
§15 沖縄県公衆衛生協会誕生
§16 牛糞をこねる男
§17ゴールデンシャワーとの出会 い
§18 熱帯花木オンパレード
§19 田熱・レプトスピラ症
§20 テイシューが湧く井戸
§21 蚊が死なない
§22 野ネズミが消えた
§23 バガス病
§24 危し宮古島地下水脈
§25 宮古島地下水対策協議会誕生
§26 水納島上陸作戦
§27 ハブとの住み分け大作戦
§28 国場川を埋め尽くす死魚
§29 南大東島水銀事件
§30 ハブの成長曲線
§31 血清銀行
§32 吹きまくる風疹
§33 轟く基地公害
§34 怒る中山貞則長官
§35 MSA対決
§36 毒牙の生え変わり
§37 寄生虫予防協会誕生
§38 多発する赤痢
§39 魚介類のコバルト汚染問題
§40 シガテラによる食中毒
§41 先天性代謝異常検査開始
§42 「青年の家」とハブ
§43 全校生徒眼が痛い!?
§44 ソロモンの星の下で
§45 平敷式血液塗末標本処理器
§46 古戦場ガダルカナルで
§47 塩漬け琉球列島
§48 中華料理店症候群
§49 逃げたハブ
§50 タリュウム中毒事件
§51 タバコとハブ
§52 ひよこの特攻隊
§53 アフリカマイマイ
§54 杜総明先生との再会
§55 沖縄にも肺吸虫
§56. 衛研、大里の新天地へ
§57 新庁舎建設委員会
§58 コレラ菌安謝川を汚す
§59 クワズイモのえぐ
§60 ハブ探索犬
§61 目下フンセンチュウ
§62 アスベスト撤去作戦
§63 JICAの研修生受け入れ
§64 久高島にハブ
§65 ヴェロニカ製ろ過装置
§66 のた打ち回る島々
§67 サミット先生のこと
§68 カンボジア沖縄友好の会誕生
§69 アセアンの森
§70 チョウケイの転戦
§71 寝たきり予防
§72 郷土劇 “ゆいまある”





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