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吉田朝啓


琉球衛研物語

 Ryukyu Eiken Monogatari 1946〜1993
 
   


■吉田朝啓経歴

1931年(昭和6年)生まれ。
1958年 名古屋大学医学部卒業
1962年 琉球政府派遣ボリビア駐在医師
1967年 長崎大学(熱帯医学研究所)医学博士号修得
      英国ロンドン大学(熱帯医学・衛生学部)公衆衛生学修士修得
1970年 琉球衛生研究所所長
     (後に本土復帰によって沖縄県公害衛生研究所、現在沖縄県衛生環境研究所)
1987年 厚生大臣表彰(公衆衛生の向上)
1992年 国際協力事業団総裁賞(国際交流)
1994年 沖縄タイムス賞(社会福祉)
1997年 沖縄県環境保険部医療技官兼中央保健所所長退官
2000年 琉球新報賞(公衆衛生)
      沖縄大学人文学部福祉文化学科教授
現在   勝連病院医師

著書 「ハブと人間」「対談 長寿の邦」「チョウケイ少年黒潮を渡る」他





■吉田朝啓プロフィール

以下は、生い立ちと人となりです。
生い立ちと人となりには関連があり、
人となりはその人の発言や行動にも大いに影響を与えるからです。

出生:本人の履歴書や簡単なプロフィルには
「本籍首里に生まれる」とありますが、
両親が教師をしていたことから、生れ落ちたのは、
実は、沖縄本島中部東海岸にある小さな町泡瀬であります。
別項「ふるさと泡瀬」にもあるように、
潮風と太陽の光に満ちた実に健康的な町でした。

小学校(美東小学校)の2年を終えると、
本籍の首里に移り、沖縄師範学校付属小学校3年に進級します。

次第に戦時色が強まる中で、
海浜の町泡瀬と森の都首里の
まだまだ豊かな自然と人情に包まれて育った
Dr吉田は、ラッキーだったといえます。

一中(沖縄県立第一中学校・現首里高校)に
入学したとき(昭和19年)は、
すでに沖縄中が戦時色に塗りつぶされ、
校舎は日本陸軍の兵舎となり、学業は途絶え、
陣地構築に明け暮れる日々が続きます。
(参照:沖縄戦と“最後の一中生”のコラム)

そして、昭和20年3月3日、
最後の疎開船に乗って那覇港を脱出し、
一家は大分県の田舎に疎開します。

大分県立大分中学校在校中に、
大分市郊外の農場で「終戦の玉音放送」を聞き、
Dr.吉田の戦後が始まります。

首里高校を一年後れの1949年に卒業したとき、
沖縄に大学はなく、若者たちは揃って
米軍基地に就職先を求めざるを得ませんでした。

しかし、幸いにも唯一の上級学校として
沖縄文教学校と沖縄外国語学校があり、
Dr.吉田はその外語に進みました。

外語とはいえ、英語だけのクラスでしたが、
これが後の人生に大いに役に立ちました。
英語の素養がその後の学習に著しく有利に働いたし、
現在普及しているパソコンなどの機器を
老骨ながら両手十指で自由に操作できるのも、
元はといえば英語の基礎を
青年時代に叩き込んだことによると思われます。

文教学校と外語学校が統合され、
琉球大学に発展したとき、
すでに医師になることを心に決めていたDr.吉田は、
当時発足していた本土留学に焦点を当て、
そして、昭和27年名古屋大学医学部入学を果たします。

本土契約留学の規定(医師国家試験合格後に直ぐ帰郷し、
琉球政府の指定する医療機関に就職すること)を愚直に遵守して、
昭和34年春に帰郷をしたDr.吉田を待っていたのは、
就職難であった。卒後研修のできる医療機関は少なく、
すでに先輩医師で満杯であり、
やむなく琉球大学学生部診療所に勤めました。

ここはしかし、まだ医学部のない
“8ミリ大学(大宅壮一)”のささやかな診療室でしかなく、
Dr.吉田の臨床研修には全く不十分な施設でした。

臨床(の研修)がだめなら、
予防医学・公衆衛生か学問・研究の道もあるのではないか。
とつおいつ悶々していたDr.吉田に助言して
公衆衛生の道を指し示したのが、
大宜見朝計県医師会長と照屋寛善琉球衛生研究所所長でした。

自身も琉球古来の風土病フィラリアにかかり、
その疫病が琉球全体に蔓延している事実を掴んでいたDr.吉田は、
意を決して風土病撲滅の道を選びました。

1960年、
長崎大学風土病研究所(現熱帯医学研究所)の研究生となります。

そして、1962年、学界の謎とされていた
「フィラリア仔虫の夜間定期出現性」という珍現象を解明するため、
琉球政府派遣医師としてボリビア移民300名と共に
南米ボリビア共和国のジャングル地帯に移り住みます。
物理的に過酷な熱帯地での生活であったが、
沖縄に残してきた妻と娘三人のことが気がかりで、
心理的にも忍従の2年半でした。

帰国後、長崎大学医学博士号を修得したDr.吉田は、
那覇保健所医師としていよいよ
公務員医師の道を歩むことになりますが、
公衆衛生をやるならその基礎を固めなければならないと、
思い立ち、1966年
英国ロンドン大学熱帯医学衛生学部公衆衛生学修士課程
(Diploma in Public Health)に進みました。

1970年、琉球衛生研究所所長を拝命したときのDr.吉田は、
もう潰しが利かないほど、臨床医学を離れ、
公衆衛生専門医となっていました。

琉球衛生研究所はその後沖縄の日本復帰によって
沖縄県公害衛生研究所となり、
現在沖縄県衛生環境研究所となっています。

ここ(衛研)で公務員生活を終わらせようと
考えていたDr.吉田にも定年がやってきました。
医師は修業年限の長さから一般公務員よりも定年が
おそくて65歳と決められているが、衛研は60歳です。

1990年、Dr.吉田は沖縄市にある県立コザ保健所所長に転勤。
保健所勤務は“昔(20年前)とった杵柄”で、やりがいがありました。

ときあたかも「寝たきり予防」の全国的運動の最中で、
Dr.吉田が取り掛かった仕事は、
県民の広報教育のための郷土劇「ゆいまーる」の創作でした。

これは大いに受けました。
沖縄本島北部・中部・那覇市・宮古・八重山での公演で、
高い評価を得ました。

3年後、那覇市にある中央保健所所長に転勤となりますが、
庁舎の新建築を終えると、
1995年、40年の公務員勤務をここで閉じることとなります。

やれやれ、これで念願の趣味の生活(園芸)に
没頭できると思っていましたら、
県内のトップ企業「株式会社金秀」に招かれて、
新開設のゴルフ場建設顧問となります。
工事中の赤土汚染対策に備えてということだが、
同時にゴルフ場全体の修景緑化花いっぱいにも期待されたのでしょう。
これも勤め果たして、これでほんとに自由になれるとホッとしていましたら、
今度は沖縄大学から声がかかり、
新設の福祉保健学科教授となりました。
新入生が卒業するまでの4年間、
自ら再学習しながら福祉士の養成に打ち込こみました。
学んだことは多くありました。

沖縄大学育ちの多数の社会福祉士が誕生すると同時に、
2004年、大学を退職。
三度目の正直、今度こそ自由になれると、ダラーっとなっていたら、
思いもかけず今度は那覇市長から呼び出しがかかり、
市の緑化センターのアドバイザーとなって、
市の推進する「屋上緑化事業」に協力してくれといいます。

これなら、趣味の範囲だからと、
那覇市の緑化花一杯に取り組んでいるところですが、
3年前(2005年)、
ついに抜き差しならぬ羽目に入り込むことになります。

南部糸満市にある精神病院・南嶺会勝連病院の
老人介護施設「デイケア勝連」に
専属医師として勤務することになりました。

いま、必死になって趣味の園芸を抱き寄せながら、
日夜老人のため、老骨に鞭打って頑張っていますが、
ひそかに、老人の介護施設での「園芸療法」を定着させられないものかと、
苦慮しているところです。



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